光の子どもたち in Canoa

ブラジル東北部にある小さな漁村から発信する報告日記。大自然を今に残す“カノア”における奮闘の日々をお伝えします。 『本当の豊かさってなんだろう?』キラキラ輝く子ども達の目に惹かれてやってきたこの村。『子どもが子どもらしく子ども時代を幸せに生きるためには?』という疑問を探す旅は今も続く・・・

2006年10月

5c1bf85d.JPG日本滞在中、
何度か講演や報告会をさせて頂いた。
その中で、
今もふと、
頭に浮かぶ場面がある。

話が終わり、
質疑応答の時間となった。
ブラジルと日本の違い、
子ども本来の姿について、
自然と子どものかかわり、
異なる環境の中での生活・・・
様々な質問があった。
その中で、
『お話の中に、
「ブラジルでは保育園、幼稚園といった
教育概念的に分けているわけではないが、
私はあえて、
私達がカノアで行っている活動を
“保育園”
と呼んでいます。」
と、おっしゃっていましたが、
では逆に、
幼稚園といわない理由は何ですか?』
という質問があった。
その場で私は、
皆さんが納得いくような
答えを言うことができなかったように思う。
だからこそ、
今でもこうして
しこりのように頭に残っているのだ。

日本では、
保育園と幼稚園は管轄省も異なれば、
保育園は保育所保育指針、
幼稚園は幼稚園教育要領と
大本の基本概念も異なる。
保育園の場合、
『保育に欠ける・・・』
という言葉が掲げられ、
多くの人は
保育園とは、
仕事をしているために、
日中子どもの育児が出来ない人が預ける場所。
という概念を
持っているのではないだろうか。
では、
ここで言う
“保育に欠ける”
とは、
仕事を持っていない人には当てはまらないのだろうか?

昨今では、
家庭での育児がうまく行えず、
また、
母親の状態などを加味して、
保育園で預かるというケースも増えてきているという。
子どもにとって、
保護者にとって、
お互いが傷つけあう
そうなってはならない。
一種の“避難所”としての役割も
保育園が行いつつある。
これはひとつの例に過ぎないが、
私たちが活動する
ブラジル、カノアの小さな漁村。
母親達が仕事をしていても、
していなくても、
例えば、
その日の食事もままならないような子ども、
体罰などの虐待が行われている家庭、
保健・衛生上の問題により、
家庭での育児をサポートする必要がある場合、
など、
こういった事情の子ども達を
預かり、
受け入れることが、
私達の活動の目的でもある。
なぜならば、
この子ども達も
『保育に欠ける』
子ども達だからである。

こう考えていくと、
私達の活動はやはり
幼児教育
として考えてみるならば、
『保育園』
と言うのが妥当なような気がするのである。

今日、
世界中の子ども達が
様々な危機にさらされている。
こういった子ども達を思うのならば、
保育園と言う場所は
今まで以上に
もっと多くの役割、
目的を持つものとなるのではないかと
私は考えている。



ただ、
保育園で出来ることも限られている。
職員の増員もなく、
予算も同じ。
どうやって今まで以上の仕事を
こなしていけるのだろうか?
これは
現場の保育士の
率直な
嘆きであろう。

4b99e304.JPG今日、
住民協会の会議が行われた。
いつもは数人足らずの会議。
今回はなんと、
50人以上もが会場に押し寄せていた。
何の話し合いをしていたのかと思ったら、
“土地”
について。

ここエステーヴァン村は特別政府保護地域に指定されており、
土地の売買が禁止されている。
土地の管理は全て、
住民協会が執り行っており、
エステーヴァン村の住民の子孫であれば、
この住民協会の許可を経て、
規定の土地をもらうことが出来る。
ただ、
土地は全て住民協会のもの。
建てた建物は
その建てた人の名義となる。

さて、
まだ特別政府保護地域に指定されていなかった頃、
この村に
村の出身者以外の人も住んでいた。
また、
村人と仲良くなると、
土地を譲ってもらったりといったこともあったそう。

そして今日、
話題になっていた土地の問題。

昔ここに住んでいた人の孫娘が
反対を押し切って家を建てた。
そこまでは何とか妥協していたのだが、
なんと、
この村全てが彼女のものだと言い出したらしい。
どういう展開で
こういったことになったのかは定かではないが、
住民は大反発。
今日集会を開き、
来週月曜日に始まる
村を柵で取り囲む計画を
村人皆で団結して
反対しよう(取り外す)という。


私達が行っている保育園の教職員に
この集会終了後、
こんな事を言われた。
『月曜日、
もし本当に何か始まったら
私は子ども達も一緒に連れてでも
反対運動をしに行くからね』
・・・

この村の人々にとって、
土地というのは単に建物を建てる場所ではなく、
この村の
そして住んでいる人々の
繋がり、
絆の
証なのだろう。
そんな気がした私なのでした。

e2a3b3c0.JPG私達は
知らず知らずに知識として当たり前に分かっていること、
それは覚えようとして覚えたのではなくても、
日常、
生活していく中で身につけていくものや、
知っていくものがほとんどだと思う。

ブラジルに住むようになって、
この、
“当たり前に知っていること”
というのが
本当は全く、
“当たり前”
ではないという事に気づかされる。

先月、
まだ私が日本に一時帰国していた頃、
カノアの私達が使わせていただいている施設の施設長から連絡が来た。
ある子どもの家族に結核患者が出たというのだ。
これから担任教師が確認をしにいくが、
どういった処置をとればいいだろうか?
そういった内容だった。
結核といえば、
空気感染。
唾液の飛ぶ距離で話しをしたりするだけで、
感染してしまう危険がある。
ここブラジルでも、
生後すぐにBCGを行うので、
子ども達への感染はほとんどない。
教職員はどうだろうか?
母親とよく会う担任教師は?

BCGが結核予防のための接種という事を
保護者のほとんどは知らない。
教職員にいたっても、
そういった知識はないらしい。
また、
この村を担当している保健師でさえも、
生後まもなく接種したBCGが
一生涯続くものだと思っていたほど。

時には
物事を深刻に捉えなければならないときがある。
それが、
子ども達の健康や一生に関わるようなことなら尚更。
ただ、
私達が持っている
“当たり前”の基準が、
その人達にとって
“当たり前”でなかったとしたら、
それをどう伝え、
共に取り組んで行く事が出来るのだろうか?

今回は
市の保健局に連絡を取り、
教職員全てに予防接種をしてもらった。
ツベルクリン反応を見るのは
すでに咳等、
結核の感染を認められるときにしか
出来ないという事だったので。

結核に感染しているという家族。
母親は2回の感染、
しかも治療をきちんと終えてはいない。
一緒に住む子ども(15人の子どもがいる)のうち、
末の3人だけがまだ感染していないが、
他は全て、
感染し、
治療を行った。

昔、
日本でも結核は不治の病とされ、
隔離されてきた。
今では
治療薬もあり、
きちんと治療さえ受ければ
死には至らない病気だ。

こういった感染症は
小さなこの村にとっては命取り。
だからこそ、
“当たり前に知っている”
とは思わず、
常に、
共に
学んでいく姿勢が必要なのかもしれない。

418dadcc.JPG最近カノアでは、たくさんの子どもが生まれています。
昨日、
私は生後一ヶ月になる赤ちゃんを訪れました。
顔は今保育園に通ってきているおにいちゃんにそっくりで、
私を見てニコニコと笑う姿は
本当にかわいらしい。
私の娘がまだ生まれたばかりのときの
腕の中にいる小さな命・・・
そんな日々を思い出しました。
そして今日、
生後一週間の赤ちゃんを訪れました。
この子は本当に小さく、
ぐっすりと眠っていました。
そして、
この2人のお母さんと話している中で聞かれた言葉。
それは
“卵管結紮”手術をしたということ。
これは、主に産後すぐに行うもので、永久不妊法とも呼ばれています。
カノアに着たばかりの頃、
あるお母さんの話を聞きました。
彼女は13歳で初めて子どもを産み、
19歳までに3人の母親になりました。
これ以上子どもが欲しくないと思った彼女は
19歳という若さで
“卵管結紮”手術をしたというのです。
避妊には色々な方法があります。
その中でも手術をするこの方法を19歳で選んだ彼女。
私はどうしても理解できませんでした。
しかし、
この手術はここカノアでは頻繁に行われているもので、
よくこの話を聞きます。
ホルモンへの影響もないことから、
子どもがもう欲しくない。
そう思った人には最適な手術だといいます。
その一方で、
この手術をしたために肌の張りがなくなり、
まるでいっきに年を取ったようになったり、
月経が不安定になったり・・・
というはなしも聞きます。
現在では、
病院の方で25歳以下の女性には
この手術は出来ない
という事になっているそうです。

確かに7、8人も子どもができ、
養っていく事も難しいとあれば
こういった方法をとらざるを得ないのかもしれません。
それでも、
どうしても理解できない
そう思う、
私も確かに居るのです。

第4日目。

今日は最終日。
昨日仕上げた絵を元に、
話をしていく。

ますは一人一人に
『全てを通してどう感じたか?』
『どのエレメントを引き出すときが一番難しかったか?』
『描きながらどんな疑問が浮かんだか?』
『この中でたった一つ消すとしたら何を消したいか?』
という事について話してもらった。

それぞれただ波を描いているときでも、
その出来上がった線が異なる。
鉱物を引き出すことが難しかったと言う人もいれば、
人を引き出すのが難しかったと言う人もいる。
このような作業をとして、
私達は自分自身の
“今”
を見つめる機会を得る。
そして、
私達の持っている気質
多血質、胆汁質、粘液質、憂鬱質
を感じることもできる。

Q.
なぜ深さ(奥)がある人とそうでない人がいるのか?

A.
これは深みを知るということに繋がってくる。
例えば、とうもろこしの粒をあなたの手に渡したとする。
ある人は
その種を土を耕し、植え、肥料を与え、育て、時間をかけて“とうもろこし”を得ようとするだろう。
そしてある人は
その粒を他の食べ物と交換し、
お金にしたり、
食料を得たりするだろう。
その場、その時を考えるか、
時間をかけてもそれを育ち、分かち合えるまで待つか。
その違いが、この深み(奥)の違いとなって現れるのである。

Q.
私は一日目に描いたものが気に入らなくて、2日目にもう一度描き直しました。
そしたらそこには、
一日目に書いたものと同じ線が現れた。

A.
その人の持っている内なるもの。
今の状況、影響のあるもの、その人自身・・・
全く同じものをまた違うときに描くことは不可能に等しいが、
あなたの持っているその波状はあなたにしか持ち得ないものである。
そのため、
前日と同じ波状が現れても不思議ではない。

Q.
なぜ青、赤、黄色以外の色を使ってはいけないのか?

A.
この世に存在する全ての色はこの3色からできている。
青と赤を混ぜれば紫、
青と黄色を混ぜれば緑・・・
そこに表したい色、それはこの3色で表すことが出来る。

こういった作業は、
何度も続けて行わなければならない。
何度も行ううちに、
そのものが何を伝えたいのか、
何が必要とされているのか、
また、
子ども達と接するときに必要な全ての力を
養い、
強化し、
力とすることができる。

これらと同じような作業のものに
水彩画があるが、次回またここに来たときには
ぜひ水彩画を皆さんと一緒に行いたい。

<余談>
水彩画を子ども達と行うとき、
決して一度にたくさんの色を与えてはいけない。
まずは黄色。
ただ横に筆を動かしていく。
絵を描くのではなく、
その色を感じること。
それが子ども達にとって必要なのである。
そして、
一年後半に
もう一色を加える。
このプロセスが大切なのである。
必ず、
一歩一歩。
飛んだり走ったりしてはいけない。

第3日目。

前日と同じように、
まずは物語を皆で思い出す。
一人一人が、
きちんと要点を得て、
体に沁み込ませていないと、
作業を開始することが出来ない。

準備が整ったところで、
まずは前日に仕上げた
鉱物を遠くから見る。
青、赤、黄色。
そして、
今度はその中に植物を引き出していく。
前日までにたくさんの色を入れすぎ、
呼吸する間もない、
そんな人は
画板を塗ったペンキ(のりなどと混ぜ合わせたもの)で
隙間を作っていく。
このとき大切なのは、
光や呼吸を入れるということ。
ただ単に隙間を作ればいいというものではない。

本当ならば、
一日にひとつのエレメントを作業するのだが、
時間の関係で、
本日残りのエレメントである、
植物、動物、人を引き出していく。
理想としては
一つ一つを引き出し、
それを思い浮かべながら
一日頭を休め、
次の日に次のエレメントを加えるべきである。
人は必ず頭を休め、
そのものを体に浸透させる必要がある。

今回は残念ながら残りを全て一日で引き出さなくてはならない。
想像し、
それを描くのではなく、
画板の中に
浮かび上がってくるものを
引き出す。

必ず
鉱物

植物

動物


の順に引き出していく。

植物は命の源である。
そこには光と影が存在し、
動物や人もそこで安らぐことが出来る。
例えば鉱物のみの場所で
人はどのくらい生きられるだろうか?
鉱物があり、
植物がある。
そしてそこに命が存在し、
動物が存在する。
そして最後に、
人。

動物も人も
必ず地に足をつけている必要がある。
それを大切に。
そして、
水の流れや風の流れも
落ちていってしまわないよう、
必ずその流れとリズムを
感じること。

静寂な空間。
これで今日の作業は終わり。

第2日目

1日目に聞いた話をもう一度皆でおさらいする。
1シーンごとに一人ずつ話していく。
黙って話すのではなく、
体を使って劇をしているように話す事で
物語がイメージとして
体全てで捉えることが出来るようになる。

昨日作成した画版。
そこに色を入れていく。

まずは青。
必ず右上から始める。
真ん中辺りまで
右から左へと、
円を描いたりするのではなく、
寝かせたチョークを滑るように動かしていく。
描き終えたとき、
その波を、
自分自身の中に取り込んでいくように、
その中に潜ってみる。
今まで考えていたこと、
ストレスなど、
全てをその中に入れることで、
真っ白な状態の自分を見つめていく。
下半分。
やはり右上から。
しかし今回は右上から左下をめがけて
チョークを滑らせていく。
このとき忘れてはいけないのが
“呼吸”
吸って、吐いてを意識しながら
波を描くように。

全てが青色で染まったとき、
自分自身で描いたものを
遠くから見つめてみる。
そして、
皆が描いたものを見てまわる。
どれひとつとっても、
同じものは存在しない。
なぜならば、
一人一人のうちにあるエネルギーの波が
そこに現れているから。

少し時間をおいた後、
その青の世界の中から
鉱物を引き出していく。
自分で想像して描くのではなく、
その波上の中に
浮かび上がってくる鉱物
青のチョークでなぞっていくのである。
すこしずつ、
岩や石、山などが浮かび上がってくる。
そこに赤いチョークで強調を加える。
必ず呼吸が残るように
全てを塗りつくしてはいけない。
その中から見出せるもの。
それを引き出していくだけ。
赤は下半分に入れていく。

最後に、
黄色のチョークを手に持ち、
上半分に色を加える。
まるで光が降りてきたように
その絵の中にやっと、
青、赤、黄色の三色が揃うのである。
よく見てみると、
すでに
緑や紫も見えるかもしれない。

そこで今日の作業は終わり。
自分の中にその絵を残し、
共に眠りにつく。

第一日目
10月17日(火)

子どもを教室に迎えるとき;
教室にはいる時に必ず
・目を見る。
・手を握る(抱擁など必ず身体のコミュニケーションをとる)
・名前を呼ぶ。(あだ名はNG)
・挨拶をする。

※この時に子どもの状態を確認する。

人生の中で必ず、
一人でも構わないが、
『信頼できる人』
が必要である。
保護者でなくても、
教師でも構わない。
子どもにって、
安全で、信頼できる人、場所。
それがとても大切なのである。
だから、
私達教師は
そのひとりになれるように
努力を忘れてはいけない。

地球には
・鉱物
・植物
・動物
・人
が存在する。
鉱物は大地として、そのものが根を張る、地に足をつける助けとなる。
これがなければ、
何もかもが揺れ動き、
あるものとして存在することすら出来なくなってしまう。
植物は性別が存在し、種があり、花をつけ、実をつける。
そのものだけでは成しえなくとも、尊敬の念を教授するものである。
動物は集団、地域の見本となるものである。
必ず群れを成して存在し、
お互いにそれを尊重しあう。
そして、生まれ来る子孫を共に育てていくのである。
は意志が存在し、対になることで多くの事を成し遂げることが出来る。

についてはそれぞれ皆さんで考えていただければ嬉しい。

この4つの分類。
これら全てが入っている物語を聞いた。
そして、
その物語を頭から自分のものとしていきながら、
作業を始める。

_菷弔鮑遒襦
準備するもの:
・木枠(1m四方)
・厚手の紙(私達はセメントが入っていた袋を使用)
・バケツ
・スポンジ
・のり
・ペンキ(粉上のものを使用)
・水

¬斛箸忙罎鬚里衂佞韻垢襦
バケツに水を入れ、そこにのりを混ぜ合わせる。最後にペンキ(粉上)を入れて、よく混ぜる。
ぬ斛箸砲弔韻身韻涼爾ら端までスポンジを使ってインクを塗る。
12時間ほど乾かす。

2日目にこの紙を使って作業開始。

ba4dcb5d.JPG先週の日曜日。
モンチ・アズールコミュニティー協会から
“Zeca(ゼッカ)”がやってきた。
彼はウテクレーマーさんに育ててもらったといっても過言ではなく、
モンチ・アズール協会設立をウテさんと一緒に立ち上げた。
サンパウロのシュタイナー学校に学び、
後、
ドイツで終了した。
その後、
教員養成を終了し、
また、
障害児教育を積極的に学び、
療法士でもある。
シュタイナー学校の教師としてスイスで働き、
その後、
モンチ・アズールでも働いた。

そんな彼が、
私達に一週間の連続講座を行ってくれている。
サンパウロとは違い、
なかなか学びを深める機会がない私達には
なんとも嬉しい機会である。
教職員全てが参加しての講座。
すぐに実践に移していけるようにと
テクニカルなことも含まれている。

この講座については
また詳しくお伝えします。
まずはご報告。
Zeca(ゼッカ)が着ました!!!

9ebdad9c.JPG私たちが行っている活動は、
主に3〜10歳までの約40名の子ども達を受け入れている
幼児教育活動なのですが、
そのほかに、
・(伝統)工芸品の作成、販売の促進
・地域における文化・スポーツの支援、促進
があります。
今回は『スポーツ支援』として行っている
子どもサッカー教室のご紹介。

2003年末から始まった子どもサッカー教室。
7歳〜16歳までの子ども達が週に2回及び週末に練習を行い、
また、
地域間の交流として、
交流試合も定期的に行われています。
学校では学び得ない、
『尊敬、礼儀』なども積極的に取り入れ、
子ども達は大好きなサッカーを通じて
ルールや規律、
集団での生活、
敬う気持ち、
尊重しあうということ、
サッカーの技術だけではなく、
こういった様々なことも同時に学んでいます。

ブラジルではどこにいっても、
どんな小さなスペースでも、
老若男女問わず、
サッカーをしている姿を見ることができます。
ここ、カノアの小さな漁村、
エステーヴァン村も例外ではありません。
この子ども達、
サッカーを通じた姿を
これからも皆さんにお伝えしていきたいと思います。

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