光の子どもたち in Canoa

ブラジル東北部にある小さな漁村から発信する報告日記。大自然を今に残す“カノア”における奮闘の日々をお伝えします。 『本当の豊かさってなんだろう?』キラキラ輝く子ども達の目に惹かれてやってきたこの村。『子どもが子どもらしく子ども時代を幸せに生きるためには?』という疑問を探す旅は今も続く・・・

2015年04月

先日、
知人家族が訪ねてきた際、
連れの彼が弟の写真を見せてくれました。
生まれた時からベットに寝たきり。
それでも、
母親の努力のおかげで、
自宅には充実した医療設備があり、
派遣されてくる介護士が常勤している。
学校に通うことが難しいと知ると、
自宅に教師を招いた。
これを全て、

「人はみな平等」

という法律を実現させるために、
母親が勝ち取ったものだという。
(母親は43歳という若さで亡くなった)

寝たきりで、
しゃべること、
指先を少し持ち上げることしかできないにも関わらず、
絵やパソコンに興味がある事を知った兄弟は、
そのための機材を整え、
講師を招いた。
現在では寝ながらも、
呼吸のおなかの動きでマウスを動かし、
グラフィックデザイナーとして仕事をしているという。

もっとうは、
「限界はない」
ということ。
五体満足でも、
自分自身で限界を決め、
できないと文句を言う。
本当に“無理”ということはどのくらいあるのだろうか?
そんな事を考えさせられた。

「吾唯足知」

という言葉がある。
「われ ただ たるを しる」と読み、
一言で言うと
「人は欲張らず、
今の自分を大切にしなさい」
という意味で、
「足る事を知る人は不平不満が無く、
心豊かな生活を送ることが出来る」
ということだそう。

胸に刺さる言葉。
よし。
がんばろう!!

私は、

“多文化共生”

というものが、
意識することなく、
自然に、
日常的になる日を夢見ています。

ただ、

「共生」

というのは難しいもので、
ここに違う人間が、
考え方も十人十色という中で、
どのように生きていくのか?
それこそ、
意識せずに自然と行うというのは困難であるともいえるかもしれません。

でも、
コブクロの「永遠にともに」ではないですが、

共に歩き 共に探し 共に笑い 共に誓い
共に感じ 共に選び 共に泣き 共に背負い
共に抱き 共に迷い 共に築き 共に願い

この中すべてとは言わなくても、

共に楽しみ、笑える、
共に学べる、
共に育っていく…

こんなことが自然にできる、
それが、

「共生」

ってことなんでしょうね。
以前、
ある先生が

「教育は昔、“共育”と書かれていた」

と話されていたのですが、
それこそがまさに、

“教育”のあるべき姿を現しているような気がします。

まずは共に楽しめ、
笑える毎日を過ごしていく事を目指していきませんか?

突然ですが、

「ユニバーサルデザイン」

って知っていますか?

「ユニバーサルデザイン(Universal Design、UD)とは、
文化・言語・国籍の違い、
老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに利用することができる施設・製品・情報の設計(デザイン)をいう。」
(wikipediaより)

バリアフリーというのは、
高齢者や障害者を対象によく使われてきているので、
少し意味合いが違うなぁ〜
というのが、
私の感想です。

「ユニバーサルデザイン」
の方が、
“みんなにとって心地よい環境、使いやすい”
という意味合いにとることができ、
なんとなく、
私の目指している、

“子どもが子どもらしく、
子ども時代を過ごすためには?”

という人生の目標にも近いものを感じます。
もっともっと、
この考え方が広がっていけばいいなぁ〜

IMG_0690日本から戻って約2週間。
驚くことに、
毎日のように雨が降っています。
今までは、
雨季であっても、
夜中から朝方にかけてのスコール(豪雨)だったのですが、
日中にも雨が降り続き、
必ず太陽が見える、
雨季の日でも晴れ間が必ずある、
ここ、
カノアでも、
太陽が見えない。
そんな日が続いています。

おかげで、
メールやインターネットを見るのはできても、
スカイプなどで話をしようとしても、
回線がうまくつながらず;;;

恵みの雨。
とはよく言いますが、
それにしても、
なんとも不可思議なこの天候。
雨があまり降らないこの地域の住民は、
実はこの雨が嬉しいのだとか(笑)
いつまで続くのかこの雨。
暑さが和らぐ…という利点もあるので、
何とも言えないのですが。。。

さて、
明日も雨は降るのかな?

今日、
私達の保育園と学童教室は、
臨時休園(校)となりました。

今週の火曜日、
バイクで二人乗りをしていたこの村の若者が車と衝突し、
意識不明の重症となっていました。
それが昨日、
残念ながら二人とも、
帰らぬ人となったのです。
奇しくもその内の一人は、
先月亡くなった女の子の兄でした。

一ヶ月供養のミサ終了直後、
彼女の兄は亡くなった…ということになります。

ひと月の間に2人も子どもを失った家族。
しかし、
母親は気丈でした。
娘達に支えられながら、
最後の別れをしていました。
一番苦しそうだったのは、
亡くなった双子の片割れ。
彼女は泣き崩れ、
立ちあがる事もままならなくなるほど。
それでも彼女もお墓まで自分の足で歩いて行きました。

彼には娘が一人いました。
私とも縁が深い、
女の子です。
来月で15歳になる彼女は、
自分の誕生日のちょうどひと月前に父親を失ったことになります。
シングルマザーとして、
母親に育てられながらも、
父親を愛してやまなかった彼女。
近年、
今までとは打って変わり、
父親は家を訪れたり、
外食に誘ったり、
学校の行事に参加するようになりました。
仲よさそうに歩く姿は、
まるで恋人同士のようでした。
そんな彼女も、
多くの友人に囲まれ、
母親に付き添われながら、
父親の死を受け入れていました。
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人々は言います。

「子どもが親よりも先に死ぬことは、
何よりも苦しい。
それでも私達は、
今日生きていられることに感謝し、
明日には希望を持ち、
歩んでいかなければならない。」

今生きている事を素直に喜び、
感謝している人ははたしてどのくらいいるでしょうか?
私自身、
当たり前のように明日が来ると信じ、
過ごしていました。
彼らから学ぶこと。
それは、
生きている、
それこそが感謝すべき事なのだということです。
死というものを身近に感じたここ数日。
頭も心の中も、
まだ整理しきれないことで一杯です。

先月、
我が家の目の前の家の双子の一人、
まだ25歳(くらい)の女の子が、
亡くなりました。
未だに原因は不明。
体調を崩して病院に運ばれ、
点滴を受け、
その翌日に、
亡くなったそうです。
2ヶ月経たないとその死亡の判定結果が出ないということで、
その死因は憶測を呼び、
「デング熱ではないか?」
「ネズミなどからの伝染病では?」
など、
様々な事がいわれています。

彼女には現在8歳になる息子がいます。
シングルマザーだったので、
その子は今、
祖母の家に預けられています。

今日は1ヶ月供養のミサが行われたのですが、
夕方まで、
その男の子はいとこと一緒に元気に走り回っていました。
傍にはもう母親はいない。
でも、
まだ実感がないらしい…
そう、
親戚の人が話していました。

彼女とはあまり話した記憶がありません。
ただ、
12、3年前に、
音楽教室でリコーダーを教えていた時の生徒の一人でした。
週2、3日。
家まで迎えに来てくれ、
誕生日には友達みんなとプレゼントを作って渡してくれました。
その時には毎日のように話をしていました。
何とも笑顔が素敵でした。
それから数年。
生活の中で交わることが少なくなり、
ほとんど話さないまま、
時が経っていきました。

誰もが信じられなかった彼女の死。

年功序列ではない。
誰だって、
ひょんなことで亡くなってしまう可能性があるんだ。
誰にだって起こり得るのではないか?
だったら今、
私達は何をして、
何を欲し、
誰と一緒にいたいのか?
そんな当たり前のようで、
大切な事を考えるようになりました。

彼女の冥福を心から祈ります。
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私達が保育園や幼稚園の教室というと、
一つの部屋にたくさんの子ども。
だから、
なるべく広く、
そして、
便利で効率的にと、
数少ない保育士が見渡せ、動きやすいように…
そんなイメージではないですか?
でもこれは、
私たち大人、
保育士からの目線で、
子どもの目線ではありません。

子どもはどんな場所で、
環境にいることが快適で、過ごしやすいのでしょうか?
安心感があり、
安全でいられるでしょうか?

そんな事を考えているとき、
私が購読している“エデュカーレ”という雑誌の中に、
目から鱗の記事が!?

「家庭でしない事は保育園や幼稚園でもしない」

食事と寝るところは一緒にしない。
掃除用具は目につくところに置かない。

当たり前のようですが、
実は忘れがちの事でもあります。

ただ広く部屋を使えればいいのではない、
その用途に応じて、
遊ぶ場所、
休める場所、
食事の場所など、
コーナーを区切るのも大切ですよね。

大きく頷きながら、
今度担任教諭達と教室を見て、
一緒に考えていけたらと思いました。

私は今年度より、
セアラ州アラカチ市の
「保健医療委員会」
のメンバーとして参加しています。

今日、
その会合では、
2014年度のアラカチ市内の保健医療に関する報告がありました。

“アラカチ市民の内11%が65歳以上である。”

ということから始まり、
市民病院での医療件数や市内の緊急搬送、
症例報告や死亡率など、
様々な報告がありました。
気になった事はいくつかあるのですが、
今回は

“自然分娩”

について。

昨年度、
アラカチ市内で実施された出産の内、
約25〜30%が帝王切開でした。
持病がある、
骨盤形成の関係で自然分娩できない、
妊娠期にハイリスクと診断された、
など、
自然分娩が困難である場合を除いても、
妊婦、
もしくは、
同伴者が
“帝王切開”
を望むケースが増えてきていると、
現場の看護師達は言います。

15年ほど前まで、
私が住むこの小さな村にも、
お産婆さんがいました。
そして、
ほぼ全ての人は、
自宅での自然分娩でした。

医療が発達し、
病院で出産することが通常となり、
市内にあるたった一つの産院はいつも満員。
出産を待つ…というより、
機械的に出産を行う…
それが正しい表現であると言わざるを得ない程、
帝王切開による出産が増えていきました。

そこには、
妊産婦の意思というよりも、
医師不足、
ベット数の不足など、
外部の条件により、
帝王切開となるケースが多くあります。

1995〜2000年にかけて、
ブラジルでは自然分娩に関する大きな動きがあり、
助産師が認知されるようになりました。
2001年からは、
毎年のように国際的な学会がブラジルで開催されるようになるなど、
意識が大きく変わってきている、
それがひしひしと伝わってきていました。
しかしここ数年、
一時の波は薄れ、
残念ながら再び帝王切開による出産が増加し始めているようです。

2015年1〜3月までの3ヵ月間、
アラカチ市内で行われたお産は91例。
その内の70例が帝王切開でした。
この数字には、
正直驚きが隠せません。

妊婦検診の強化。
妊婦を対象とした母乳育児推進講座の実施。

素晴らしい取り組みもあります。
が、
それ以上に、
課題が多くある。
そう実感させられました。

日本にいる間に知りたかった、
今気になる本。
それは、
境治さんの著書:
『赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。』(三輪舎刊)
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筆者は1962年生まれのコピーライター。
「子ども分野」の人ではないのに、
ここまで子どもの大切さを理解して、
しかも分かりやすい言葉で書いてくれている…

これを読んだ途端、

「読んでみたい!!」

とすぐに思ってしまいました。

中でも大きく頷いたのが、

「誰も何もしてくれない」
ではなく
「私たちには何ができるか」

ということ。
大したことはできないかもしれない。
でも、
自分達でできる事もあるのではないか?
その発想が、
私にぴったりとはまりました。

この本を読んだ方、
ぜひ感想を聞かせてください!!

4月12日。
無事、
ブラジルに到着しました!!

途中で機内にタブレットを忘れてきたり、
暑さで夏バテになったり、
家についた安心感からか体調を崩したり…
と、
なんだか慌ただしかったのですが、
一晩ゆっくりして、
復活!!
荷ほどきも終え、
明日から仕事に復帰です。

今回は3ヶ月と短い滞在の中で、
やらなければいけない事が盛りだくさん。
スケジュールに追われながらの毎日となりそうですが、
皆様どうぞ、
応援のほど、
よろしくお願いいたします!!

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