光の子どもたち in Canoa

日本とブラジル、2つの国の中から感じたこと、気づいたことを発信するなんでも日記。ブラジルからは、大自然を今に残す“カノア”における奮闘の日々をお伝えします。 『本当の豊かさってなんだろう?』キラキラ輝く子ども達の目に惹かれてやってきたこの村。『子どもが子どもらしく子ども時代を幸せに生きるためには?』という疑問を探す旅は今も続く・・・

2006年08月

9f7b10c5.JPGここ数ヶ月、
本当に難しい局面に対面し、
その中で多くの過ちや失敗、危機もあった。
それでも、
やっと今、
自分は紆余曲折しながらも歩いていく道を見出せたような気がする。
それは逆に、
回り道をしてもいい。
と、
自分にやっと言えるようになったという事なのかもしれない。

ブラジルの地の果てといわれる場所で幼児教育に携わる私。
そこで学ぶことは本当に多い。
そして、
日本に受かっても伝えて生きたいことがたくさんある。
私達日本人が忘れてしまった心。
それがまだ、ブラジル、カノアでは残っている気がするからだ。
私は現在、
『光の子どもたちーカノアの活動を支える会』
という新たな一歩を踏み出した。
世界中、どこの国の子どもも同じものを持って生まれてくるのだという事、
子どもはそれぞれ違って当たり前。
だからこそ、その子どもをあるがままに受け入れるという事。
この事をブラジル、カノアの活動を通じて皆さんに伝えて行く事が出来ればと考えている。
興味のある方はぜひご連絡ください!!

20be81e1.JPG保育士として感じた疑問がきっかけで
ブラジルにまで行く事になった。
そして今、
それらの疑問の答えを探す旅を続けている。

子どもというのは尊い。
かわいく、
元気をもらい、
お互いに学びあい、
成長していく。
ブラジルに行き、
日本の裏側で、
全く異なる環境や文化の中で育った子ども達と出会い、
その中で過ごしてきた。
そこで見えたもの。
それは、
『どんな子どもも同じものを持って生まれてきている』
という事実だった。
確かに、
物質的に、
経済的に、
その文化や食生活、
家族構成などなど
あげていったらきりがないほどの違いがあるかもしれない。
でも、
兄弟でも性格は異なり、
それぞれに個性はある。
だから、
その子ども、
そのままを受け入れるということの大切さが
今、
ひしひしと感じられるのである。
“子どものあるがままを受け入れる”
ということは簡単なことではない。
でも、
保育士として、
親として、
子どもを育てる地域の人間として、
子ども一人一人をそのまま受け入れるという事を
その大切さや重要性を
多くの人に知ってもらいたいと思う。

aaa789e4.JPG私の人生は、
ほとんどが目の前にあるチャンスを掴んでくることにのみ果たされていたような気がする。
考えながら行動するよりも、
自分を信じてそれに身を投じていく。
そんな人生の歩み方をしてきた。
そしてそれは、
自分に自信を持てる大切なものであったし、
その中での出会い“縁”というのは尊いものばかりだった。
ただ、がむしゃらに走ってきた私。
それだけではなく、
きちんとした裏づけの上で成り立っていたこと。
それはほんの一握りに過ぎなかった。
何を聞かれても『私は、私は・・・』
自分が常に主人公である物語。
それが嬉しかったし、
楽だった。
だけど、
地球の裏側の、
ブラジルという国で、
日本人として暮らしていく。
そして、
そこで活動していくということは
そんなに簡単なことじゃない。
そんな単純なことに気づかず、
ふと気づいたときには
過ぎ去った日々を直す手立てはなかった。
過去の私、生き方・・・
素敵なところもあるし、今でも誇らしい部分でもある。
でも、
いつまでも同じではいけない。
だからこそ、
少し立ち止まって、
自分自身を見つめ直し、
心の奥に話しかけてみたい。
カノアの海を前にすると、
こういうこともいとも簡単に出来てしまう。
壮大な海。
どんなことも受け入れてくれる包容力。
海って、本当にすごいですよね?

0259bc81.jpgカノア人になりきろうとする毎日。
そして、
近所のおばあさんはまるで自分の孫のように世話をしてくれる。
そうやって今までしたことのない、
“近所づきあい”
を楽しむ私。
実家のマンションには50世帯くらい住んでいるのだが、
そのうちの2、3軒の人しか知らない・・・
それでも生活できたし、
そんなことに気づくこともなかった。
でも、
小さな漁村での暮らし。
何をしても、
どこにいっても、
皆が知っている。
だから、どこで何をしたのか・・・村人で知らない人はいないほど。
毎週のように通っていたおばあさんの家。
そこには3人の孫が住んでいた。
私と年もそんな変わらない彼ら。
なぜ私が毎週その家に通っていたのか?
それは村の伝統工芸である
『藁細工』
を学んでいたからだった。
藁細工といっても、藁を使っているのではなく、椰子の葉を乾燥させ、裂いて使う。
砂丘の裏にある森の中、
その中に生えているやしの葉でなければならず、
おばあさんの孫達と共に探索を兼ねて向かう。
砂丘を越えてあるとは思えないほどの緑豊かな森。
季節ごとになる果物を紹介してもらいながら、
(中には臭いだけでもきつくて食べられないものも・・・)
葉っぱ探しは続く。
そして葉を見つけ、よじ登り、葉を取る。
いくらなんでも私にはそれはできないので、
取った葉を拾う役目をした。
それを家に持ち帰り、屋根の上で乾燥させる。
そして数日後、
やっと裂いて作業が出来るようになるのだ。
見よう見まねで覚える私。
家に持ち帰り、寝るまで編んでいたこともあった。
そんな日が続く中、孫の一人が
『一度もつくったことないけど、小さな頃から作っていたのを見ていたんだからできないはずがない!!』
と言い出し、私と一緒に編み始めたのだ。
手先が器用で、
その指の使いようったら・・・
初めてだなんて“嘘だ!!”と叫びたくなるほど、
いとも簡単に編んで行く彼ら。
そしていつしか、
私達の競争が始まっていたのだった。
お互いに負けず嫌い。
そうこうしているうちに彼らはなんと伝統工芸をマスターしてしまったのだった。

ある日、おばあさんに招かれて家にお邪魔した。
そこでおばあさんが涙ながらにこんな事を言ったのだ。
『本当にありがとう。
この子達(おばあさんの孫)は絶対に覚えることはないと思っていたのに、
あなたへの対抗心によって、
彼らは村の伝統工芸を受け継ぐことが出来た。
このことは一生忘れないよ』

60c51ec9.jpgカノアで過ごすようになって数ヶ月。
始めは折り紙教室やら何やらと日本の文化紹介もしていました。
ただ、私は現地の人と同じ生活をして、現地に溶け込みたい。
そういう想いが強かったため、
カノアという土地を知るために、
伝統工芸を学び、
昔の遊びや玩具を作り、
現地の食事を食べ、
ホームステイをし、・・・
活動の傍ら、
歩いて歩いて、
話して話して、
そして日本人である事を自分が忘れそうになるくらい
“カノア人”
になろうとしていました。
数年が過ぎ、
そういう生活も板についてきた私。
それでも、
いくつかの点においてはやっぱり日本人。
1.洗顔フォームを使う。
2.麦茶を飲む
3.日本の歌手の歌を聞く
4.日本語の本を読む
頭からつま先まで石鹸で・・・というのはできず、
やはりそこは顔には洗顔フォーム、
髪にはシャンプーとリンスは欠かせませんでした。
そして、
もともと余り水分を取らない私。
脱水症状を年中起こしていたために(それに気づくまでも3ヶ月掛かったのですが)
母が麦茶パックを送ってくれるようになりました。
冷蔵庫に必ず麦茶があれば口にするだろう・・・
その甲斐あり、
毎月高熱を出して4日寝込んでいたのがすっかりよくなりました。
そしてついつい口ずさむ日本語の歌。
そして、
日本語の本。
ブラジルに関することも、
幼児教育に関することも、
やはり日本語で書かれているものの方が頭に入ってくるし、
きちんと自分で理解して受け入れることが出来る。

どうにかして“カノア人”になりたい。
傍から観れば『無理だろう』とすぐに言われることですが、
私にとっては死活問題でした。(大げさですね)
日本人としての私。
でも、
それを忘れたいと思っている私。
カノアに着てからというもの、
『こんな事を考えるか?』
ということまでも悩める。
この時間は人生の中でほんの少しなのかもしれない。
でも、
思いっきり色々な事を考え、
悩みたいと思った私でした。

18c65c31.JPGとにかくここカノアの自然はすごい!!!
何がすごいって、
どこまでも続く真っ青な海、
そして、日々形を変え手いる真っ白な砂丘、
その砂丘に昇ってみる夕日。
緑の広がる森のずっと遠く、地平線へと沈む夕日は本当に素晴らしい!!!

私がまだここカノアに着たばかりの頃、
毎日のように子ども達と一緒に砂丘に登っていました。
スノボーならぬ砂ボーで遊びながら、
夕日が落ちていくのを眺めます。
地平線へと近づいていく頃、
子ども達は太陽に向かってこう叫びました。

『真由美のお母さん、お父さんにおはようって言ってねぇ〜』
沈む夕日は沈んだ後に日本へと昇る。
そう考えた子ども達からの言葉でした。
夕日を眺めながら、
子ども達の笑顔を見ながら、
私は今日も頑張ろうと気合を入れなおす。
挫けることも、
失敗することも、
怖くなることも、
不安になることもあるけど、
それでもいつも思い出すことがある。
私がなぜ今、ここに居るのか。
日本の裏側、
地球の反対側にあるブラジルという国の、
ブラジル人からも“地の果て”といわれる場所に身をおき、
そして、子ども達と過ごす日々。
この広大な自然の中から学ぶことは本当にたくさんある。
今、日本人が忘れている何か。
それがすべてここに詰まっているような気もする。
そして、
その一つ一つを私は発見しながら、
それを伝えていく。
なぜなら、
少しずつ日本の皆さんにも知ってもらいたいから。。。

自然の中から見えるもの。
このすごい大自然!!!
ゆっくりと、壮大に、
力と元気と希望と夢、
全てをもらいながら明日に向かっていくのです。

42ff0f8d.jpg私が辿り着いた先。
それは“カノア・ケブラーダ”と言うところでした。
バスを降り、繁華街を抜けていくと目の前に広がる真っ青な海と真っ白な砂丘。
青と白のコントラストが素晴らしい。
初めて村に足を踏み入れたとき、
その瞬間に子ども達がわぁ〜っと駆け寄ってきた。
光り輝くその笑顔。
その瞬間、私は『天使に出会った』と思った。
しかしただ一人、母親のスカートの陰に隠れている女の子がいた。
その子の名前は“エレナ”。
当時2歳の彼女は私がまるで“宇宙人”かのように怖がり、目を合わせようともしなかった。
観光地として名高くなっていたカノア。
しかし、東洋人はまだ珍しかったようだ。
保育士である私は子どもが大好き。
何とか彼女の心を開きたいと近くによって見ると、
わぁ〜っと大泣きされてしまいました。
それから何度も彼女に会いに行き、
打ち解けようとしてみるものの
どうしても難しい。
エレナは村の中で私を見つけると目を閉じ、両手を前に出して歩き出す。
私を見ないように・・・
数ヵ月後、私はサンパウロへと行く事になった。
すでに私の故郷であるかのように感じていたためか
何だか寂しい。
そしてカノアを後にしたのだった。

それから数ヵ月後、カノアに戻った私のもとに
たくさんの子ども達が笑顔で駆け寄ってきてくれた。
その中に、なんとエレナがいるではありませんか!!!
大きな目に大きな口をしたエレナ。
彼女の笑顔を見れた私は心から嬉しく、そして本物の天使を見た気がしました。
1年後、住民と共に運営していた保育園の私のクラスに
エレナが入園してきました。
初めてあったときなど覚えていない彼女。
彼女に受け入れてもらったことが今のわたしに繋がったことは間違いありません。
そんなエレナも現在9歳。
これからどんなことが待ち受けているのか。
それを住民達と一緒に歩んでいきたいと思っています。

広大な海

ブラジル、サンパウロのファヴェーラ(貧民街)での一年間が始まった。
言葉も分からず、右も左も分からない・・・
でも、何だか意欲だけは十分な私。
ここに来た本当の目的。
それは、
『日本の子ども達に光を取り戻すためには?』
と言うことでした。
大きな事を言っているようで恐縮ですが、とにかく、保育士として、子どもと日々接している私にとっては子ども達が元気じゃないというのは世界の終わりのようなものなのです。
20歳そこそこの私に一体何が出来るのか。
それは分かりませんが、とにかく信じたものに取り組んでいこう。
ただそれだけでした。

一年なんてあっという間。
気づけばもう日本への帰国が迫っていました。
“私は何をしにここに来たのだろうか?”
日本の文化を紹介し、日本という国を見つめるいい機会ではあった。
ただ、私がここに来た目的に指先すら触れずに一年が過ぎてしまったと言う事実が目の前にあるのです。
このままではいけない。
このまま日本に帰るわけには行かない。
そう思った私は、私が参加していた社会活動の創始者である『ウテ・クレーマー』さんに相談をしました。
ドイツ人である彼女は、ブラジルのサンパウロにあるファヴェーラで現在(1999年当時)保育所、幼稚園、乳児園、学童教室に家具工房、織物工房、障害児施設に訓練所などなど文化や芸術に至るまでを地域住民と共に作り上げてきた人でした。
心から尊敬する彼女への相談。
そして・・・
「あなたはサンパウロでこのままいてもあなたの目的、目指すものを見つけることは出来ないのではないか?同じブラジルでももっと違う土地に行ってみたらどうだろう?」
サンパウロなどの大都市のファヴェーラ住民のほとんどはブラジル東北部からの国内移民である。夢を求めて、一攫千金を目指して故郷を捨ててまでやってきた。そこに待っていたものは厳しい現実。
昔以上に貧しい生活、多くの子どもはストリートチルドレンになってしまう。
それでも未だに大都市への国内移民は耐えない。
“なぜ皆故郷を捨ててまで?”
理由は様々であるが、ブラジル国内でも最も貧しい地域である東北部の教育、保健医療などの元でこれ以上暮らしていけないと言うのが本音なのではないだろうか。
東北部での暮らしが向上すれば、大自然の中で夢や希望の持てる暮らしが出来ればわざわざ大都市に行き、ファヴェーラを形成して昔以上に貧しい暮らしをすることはないのではないか?
そんな思いを乗せて、私はブラジル東北部へと旅立って行ったのでした。
ー続くー

d091b135.JPGやっとブログを始めました。
自分が感じたこと、思っていること、そして、学んだことや伝えたいこと・・・
どんなことができるか分かりませんが、とにかくどんどん書いていきたいと思います。
私の住む小さな村。
ブラジルの片田舎にある小さな漁村。
そこで繰り広げられる事を皆さんにお伝えしていけたらと思っています。
まずは自己紹介。

私がブラジルに行くことになったキッカケは知人の一言でした。
保育士である私は、学生のときだからこそ、海外の保育も見てみたいと強く願っていたため、どこかで受け入れてくれるところはないかと探していたのです。
そんなときに出会った知人が
『ブラジルなんてこんな機会がなければ行かないでしょ?』
その通り。
休みを利用して3週間ブラジルに行くことになりました。
紹介された保育園はブラジル、サンパウロのファヴェーラと呼ばれる貧民街の中にある保育園。
そんなことは露知らず、足を踏み入れた私が始めて出会ったのはボロボロの服を身に纏い、鼻水をたらしたキラキラと輝く目を持つ子ども達でした。
ひょろりと長い手足。
しかし、なんともエネルギッシュでダイナミックな遊びを繰り広げることか!!!
日本の子ども達に足りないもの、失われてしまったものがここにあるのではないか?
その疑問を解き明かすべく(ってそんなかっこいいものではないですが)、この保育園で働きたいと思ったのでした。
しかし、言葉も分からず、保育の経験にも乏しい私をすぐに受け入れてもらえることは出来ず、2年間足らずを日本の保育園で過ごし、再びブラジルへと旅立ったのでした。
ー続くー

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